享保の飢饉

享保の飢饉では麻里府の死者、九十八人の割合と古書にある。食物として、大角豆の菜、小豆の葉、笹の実等まで食す。飢饉に対する予備救荒策として、甘藷の栽培、藁餅、雪花菜飯、唐辛子粥、薩摩芋飯、大根飯等。

天保の飢饉
天保の飢饉は天保四年(1833)より六年も続いた大飢饉であった。 食えない農民は各地で一揆をおこし、首謀者は捕えられ入牢申しつけられたという。 萩では一坪十六人いれても部屋が不足となり、一棟建て増すと言う騒ぎであった。 藩主は村田清風を用談役として起用し、藩政改革を奨励、財政建て直しを強行した。
 世に言う天保の改革である。 その名残として次の物が当地に残っており、天保の昔を物語つている。
 1,ハゼの木  ロウソク、鬢付けを作る 麻里府小学校の北方、今弘家の屋敷跡には立派な「ハゼの木」がある。
 2,コウゾウの木 和紙の原料とかる。 大正時代までは畑の畔に随分と植えてあつた。
   故郷の今昔物語  堀田 傳 作より