天保の飢饉

oekat82006-08-20

 天保の飢饉は天保四年(1833)より六ケ年も続いた大飢饉であった。食えない農民は各地で一揆をおこし、首謀者は捕らえられ入牢申し付けられた。
 萩では一坪十六人入れても部屋が不足となり一棟建てますと言う騒ぎであった。藩主は村田清風を用談係り役として起用し、藩政改革を奨励、、財政建て直しを強行した。
 世に言う天保の改革である。其の名残である、次のものが当地に残っており、天保の昔を物語っている。

 1,櫨の木 ロウソク。鬢付けをつくる。
  麻里府小学校の北裏、今弘家古屋敷跡に見事な「ハゼの古木」が一本残っている。

 2,コウゾウの木 紙の原料となる。 大正時代までは畑の畦に随分と植えてあり、秋になると、若い衆が切って一束いくらで工場へ売っていた。

 故郷の今昔物語 掘田 伝 作より引用