ああ八月十四日(昭和二十年)

 この日は朝からじりじりと照りつける暑い日であった。光地方には午前十時ごろに空襲警報が発せられたが、土佐沖から北上してきたB29の大編隊は一直線に岩国に襲い掛かり、一時間半にわたる爆撃によって岩国駅を中心に、国民学校・郵便局・などの公共施設が目標となつた。
 約九百戸が被災し死者五百十七人、行方不明不明者百三十人に及んだ。そのうちに敵機は退散を開始し、光地方も二時間ばかりで警報が解除になった。
 ちょうど昼食事のことであり、工廠では動員学徒をはじめ、従業員一同がほっとした思いで廠内に帰り、箸をとつたばかりのところであった。突然B29編隊が姿を現し、工廠の諸施設をめがけて爆弾投下を開始した。
 延べ約百五十機の五回にわたる波状攻撃で工廠は破壊的損害をうけ海岸に最も近く、真っ先に爆撃された水雷部造修工場では山口中学校の四年生十六名が被爆し、二十数名が負傷した。
 悪夢のような一夜があけて八月十五日、突然のラジオ放送で「ポッダム宣言受諾」の聖断が伝えられた。永く苦しかった戦争はおわったのである。