学徒動員の思い出

 忘れもしない、昭和二十年八月十四日、昼前、突然の空襲警報の鐘が、不気味に工廠内に響き渡った。誰の顔にも、さーっと緊張の色が溢れた。
 思えば二年前の夏、学徒動員として光海軍工廠へ派遣、水雷部精密工場勤務、お国のため国民の為天皇の為、だまされ、はっぱをかけられながら、冷たいかこみの中におくり込まれた。
 時計を見ると昼前、「昼ご飯というのに、どうだろうなー」「こんちくしょうめー」それぞれ愚痴を言いながら、もたもたしている、非常退避の声がとぶ、そーれっ!!と海岸の退避所に向かう。
 爆音がするので見上げると悠々と東北に進んでいるB29数機、あとからの話では岩国市を爆撃に行ったとか。数分して奴等は、仕事が、おわったらしく豊後水道方面に引き上げていく。
 退避解除になり、工場内に入ったが、その時上空には五、六機が、うろついていた。しかし、べつに気にもかけなかった。よもや、あの大惨事になろうとは思ってもみなかった。
空襲警報解除になり、やれやれこれで飯にありついた。やっと人間並みになれるぞ。バカ話をする者もいた。突如「ザザーン、キーン」とすごい金属製の音がした。。
 自然に体が地面にへばりつく、瞬間「ダ・・・・・」「ドカンドカン」一瞬にして工場の屋根は、ふっとんで青天井、真っ黒い煙、真っ赤な炎、身の危険を感じ仲間とすばやく近くの壕にはいった。
「ああ紅の血は燃える」動員学徒戦没者追悼記より抜粋 つづきはまた明日。