造船所

 大上造船所、明治初期まで田名の住人であった。明治末期現麻里府公民館東隣に小さな造船所を造り移転、なかなかの繁盛にて明治二十年頃、二代川の現在地が畑で千二百坪あり三百円で買取り大上造船所を始めた。
 この頃従業員は船大工が三十人、木挽きが二十人、見習いが十余人の若者が毎日集まるので、一俵の米四斗が二日でなくなり、漬物は、五ひろの伝馬船に漬けないと不足する食欲であった。
 別府の浜に大上、東、鶴谷、出上。戎ケ下に金山、金本、越当、富永、と次から次へと造船所は新築される好景気であつた。朝は暗いうちから槌音高く街中活気があった。
 水田永蔵は大正七年、加宝丸を大上造船所、加徳丸を東造船所、加吉丸を金本造船所と千石船を三隻新造している。
 好景気に物価は高騰し、大正七年には米は約二倍になり、米穀商はお米の買占めが始まり一般民家の不満は暴動となって富山県が始まりで、東京、京都と続いて米騒動はおきた。山口県では宇部米騒動は軍隊出動でようやく治まった。
 麻里府の農民は好景気に恵まれ、出上松之進という米の仲買人は米相場で一儲けした。大正八年戦争が終わり、大正十二年には関東大震災がおき、経済界は慢性的な大不況に突入した。木造船の時代も終わったのである。
 堀田 伝作 故郷の今昔物語より



 この写真は大正10年頃。尾津西川向さん宅付近より平生湾