昔の麻里府

 唐の国(現中国)は長安の都をたつて朝鮮の高句麗を遠征し、唐と新羅は同盟して戦闘状態に入った。 頃は天智天皇(663)百済王は親密関係にあった日本国大和朝廷へ唐の捕虜百人と百済王子を大和朝廷に人質として差し出し、救援を求めてきた。
 六六三年八月に二十七日、白村港の河口で両軍激突。日が暮れて両軍引き上げとなり、明けて二十八日、日本海軍は全軍敵中に勇敢に突撃した。 唐軍は日本軍を包囲作戦に出て激戦の結果、日本軍は壊滅させられ陸に逃げる者も多く、無事に帰った船は三隻であったとい
う。 これより百済人の日本に集団逃亡が始まった。平生町百済(クタナベ)部落にも千人余りの集団逃亡が有ったと言う。  この当時の織物は麻織物で、これより百済人の指導でこの地方に麻織物が普及し、麻郷、麻里府は麻の栽培地になり。 この当時良い港であつた麻里府が、麻製品の備蓄倉庫を建て、九州、阪神方面に販路を持ったようである。 よってこの海岸を「麻津」(オズ)麻(アサ)の港というように成ったとさ。
 堀田 伝 作 故郷の今昔物語より